『帝国憲法の真実』 (扶桑社新書) 倉山 満 (著)
を読みました。
超簡単に纏めると
臣民を信頼し“性善説”で書かれた「帝国憲法」と
日本国民を信用しない(赤い)GHQが“性悪説”で書いた「日本国憲法」
と読みました。
以下、アマゾンの書評より最も参考になったカスタマーレビュー
43 人中、34人の方が、「このレビューが参考になった」と投票してい
ます。
繰り返し読むことで行間から聞こえて来た、著者の悲憤と慨嘆。
By 温泉大好き。 トップ100レビュアー on 2014/5/18
明治時代に発布され、敗戦とともに葬られた帝国憲法の精神を振り
返ることで、現憲法の改正を急ぐ一派が「条文いじりという罠に陥
」
っていることを指摘するとともに、憲法とは本来どうあるべきかとい
う姿を示し、読む人を改正議論の根本へと立ち返らせる啓蒙的な一冊
。ただ、この根本問題が論じられているのは、第2部第1章のみであ
り、他は、現憲法の問題点やそれによってもたらされた弊害など、帝
国憲法そのものから離れた議論が中心となっている。一読し、第2部
第1章には非常に強い感銘を受けたものの、それ以外の章では個別的
な問題が扱われている点には、正直、物足りなさを覚えた。ただ、こ
れが、著者の執筆能力の不足に由来するものではないことが明らかで
ある以上、このような体裁が取られたことには何らかの意図が籠めら
れているに違いないと思い、それを探るために、かなり丁寧に全体を
読み返した。それでも、その答えは容易には見付からなかったものの
、その傍ら、レビューの断片を少しずつ書き進むうちに、ようやく著
者の真意に迫ることが出来た。
現憲法の根本的な問題点は、それが占領軍による押し付け憲法であ
り、成立手続きに瑕疵(かし)がある、という形式的な点にあるので
はない。英語のconstitutionは、「憲法」の意であるとともに、「国体
」の意でもある。したがって、「憲法典(constitutional code)」と
は、「国体」を形に現わしたものでなければ一切意味を成さないので
ある。そして、「国体=憲法」とは、氷山全体であり、「憲法典」と
は、そのうちの水面上に現われている部分でしかない。現憲法の実質
的な問題点は、その制定目的自体が「国体」を示すことではない、と
いう点に他ならず、だからこそ、現憲法は、「憲法違反の憲法」なの
である。そして、現憲法の条文を守るか変えるかなどという議論は、
憲法議論の本質から外れた、枝葉末節でしかないのである。この点は
、本書で明瞭に語られている通りである。
ならば、現憲法をどうすればいいのか。例えば、あの奇怪で醜悪な
日本語で書かれた前文を廃棄し、帝国憲法の「御告文」にも比すべき
、「国体」を高らかに謳った格調ある前文を据え、条文は解釈によっ
て換骨奪胎すればいいのか。しかし、今の日本の現実を見渡してみよ
う。呆れたことに、本書によれば、「国体」という言葉は放送禁止用
語という。こんな世の中で、「国体=憲法」を示した前文の制定が可
能だろうか。第一、「国体=憲法」という等式を弁えている人間が皆
無に等しい今の日本で、前文を取り替えることの意味を理解できる人
間がどれだけいるというのだろうか。「現憲法は平和主義を謳った世
界に誇る立派な憲法。」などと本気で信じている思考停止状態の人々
ならば、まだしも説得の余地があるとしても、条文にしがみ付く「似
非・護憲派」に至っては、今の前文を廃棄することすらさせようとし
ないのではないのか。「日本は戦前、アジア各国を侵略した悪の帝国
だった。だから現憲法を一字でも変えたら日本はまた侵略戦争を始め
ることになる。」と本気で信じ込まされている人々に真実を悟らせる
には、政府の公式見解と歴史教育を 180℃転換しなければならないが
、果たして今からそんなことが可能だろうか。──そう、戦後日本と
いう時間と空間においては、「国体=憲法」を示した憲法典の制定と
いう当たり前の行為は、もはや不可能なのか。そしてこの点にこそ、
著者の、言葉にならない痛切な嘆きがあるのである。
敗戦後、日本政府は、「国体護持」を条件にポツダム宣言を受け容
れた。日本は、「天皇」という「国体」だけは何としても守ろうとし
た。これにより、わが国は、神話の時代から連なる悠久の歴史を断絶
させることなく今日まで続くことが出来た。しかし、実のところ、「
天皇」という形式の「国体」と引き換えに、実質の「国体」を失った
のではなかったか。 「敗戦から七十年。果たして、我が国の国体は護持されているので
しょうか。」わたくしは、この抑制された静かな問い掛けに、著者の
断腸の思いを読む。そして、非礼を顧みずに敢えて言うならば、それ
は、現憲法の実態を知りながら、そこに御名御璽を刻した昭和天皇の
万感でもあったのではなかろうか。