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Channel: NAZCO☆中川図画工作所
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歴史報道・教育の大逆② :ドイツも日本も、そして何にも増してアメリカ国民も戦争を欲していなかった。だがルーズベルト大統領と世界金融勢力は戦争を欲していた。

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ルーズベルト大統領はアメリカ国民に繰り返し演説した。

「攻撃を加えられた場合を除いて 
            外地での戦争に息子たちを送りはしない」

ところが、彼は同時にチャーチル首相に何とかして我々の国を有利に持ち込もうと約束していた。彼は首相に語っている。

「私は決して宣戦はしない。私は戦争を作るのだ」


              
              日本への宣戦布告の署名を行うフランクリン・ルーズベルト

日本を挑発せよ


ドール:このようにして真珠湾攻撃は、戦争に向かって微妙な政治的罠を、ルーズベルトに成功させたのです。この破局の一ヶ月後チャーチルは議会でこう語っています。
「アメリカは自身が攻撃されなくてさえも、極東の戦争に加わり、 かくて最後の勝利が保証される。という可能性は、私がルーズベルト大統領とこれらの問題を語り合った大西洋会談(1941年8月14日)以来のものである」
チャーチルのこの驚くべき暴露に対して、ミシガン選出のヴァンデンバーグ上院議員は次のような驚愕したコメントで応じました。
「言葉を換えて言えば、チャーチルは初めてルーズベルトに会い大西洋憲章を書いたとき、アメリカは日本が我々を攻撃しようとしまいと対日開戦するという、明らかに彼にとって満足のいくある種の保証を得たのだと。さらに言葉を換えれば、我々はパールハーバー以前に、大統領によってこの戦争に立候補していたのだ」
ルーズベルト大統領と彼の搾取者の仲間は、
「攻撃された場合を除いて」
アメリカは参戦しないという、アメリカ国民に対する厳粛な制約を技術的に破ることなく、ウィシストン・チャーチルと他の同じ考えの勢力を満足させるべく、真珠湾攻撃を強く待望していたのです。このようにして武器貸与法ののち、アメリカはイギリス船の護送、イギリスに対する50隻の駆逐艦の贈与、さらにはドイツ潜水艦の深度攻撃さえも行った―すべて極端な非中立挑発―が、ヒトラーの報復を誘い出すことはできませんでした。このようにして、ルーズベルト大統領は焦り―そして彼の仕掛人たち―は絶望的になったのです。
CFRのメンバーの一人、ルーズベルトの補佐官ハリー・ホプキンズは次のように告白しています。
「スチムソンもマーシャルも、アメリカを参戦させないでは勝つことはできないが、どうして参戦させるかについては知恵が出なかった。ルーズベルトは、彼に可能なギリギリの対ドイツ戦争挑発を行った。だがヒトラーは乗らなかった。彼にはもうトリックの種は残されていない。彼が多くの兎を取り出した帽子は空になっていた」
最後に残されたトリックは日本を挑発し容赦なく侮辱することだけだった。
セオボールド提督は、
「1940年の三国協定(日独伊同盟)は…ルーズベルト大統領に一つの解答を与えた。その条約の下では、日本との戦争は即ちドイツと イタリアとの戦争を意味する」
そこでルーズベルト大統領は腰を下ろした家鴨のような戦艦で日本の攻撃を誘惑するために、航空母艦を除いた太平洋艦隊を真珠湾に碇泊させていたのです。疑いもなく、これがスターク提督がまさに来りつつあるパールハーバー攻撃の警告をするのを、マーシャル将軍に止めさせた大統領の意図だったのです。
イギリス海軍のグレンフェル大佐は次のように書いています。
「普通の情報を与えられている人は誰でも、日本が卑劣な奇襲攻撃を仕掛けたと信じない者はなかった。だが政府中枢部では攻撃は十分に予期されていただけではなく、実際上欲せられていた。ルーズベルト大統領が戦争を欲していたことは疑う余地はないが、政治的理由から、最初の攻撃が相手方から加えられることを望んでいた。そのため自尊心を持つ国なら、いかなる国でも武力に訴える他ない地点にまで日本に圧力を加えたのである。日本はアメリカ大統領によってアメリカを攻撃することになっていた
さらにイギリスの生産相であったオリヴァー・リトルトンは1944年に、適切にまとめ上げて次のように言っています。
「日本は真珠湾を攻撃するように挑発された。アメリカが戦争に押し込まれたというのは、歴史の滑稽な言い換えである」
ルーズベルト大統領が真珠湾攻撃の舞台回しをし、(日本軍の)来襲があることを知っていたことの最も反発できない証拠は、おそらくH・モンゴメリー・ハイドの『3603号室、イギリス諜報機関の話』に出ているものでしょう。この本はロックフェラーセンターの36階3603号室で執務していた、イギリス秘密機関長ウィリアム・ステフェンソンが、日本をアメリカとの戦争に引き込み、従って枢軸国との戦争へアメリカを引き込むことを、ルーズベルト大統領や他のアメリカ高官と謀議したその詳細を記述している。
モンゴメリー・ハイドはさらに詳細に述べています(以下、同書より引用)。
「ステフェンソンはイギリス籍で日本で50年過ごしたエージェントを、栗栖使節団に潜入させることにある程度成功した。このエージェントは栗栖使節団のユキという人物に接触し、あらかじめ会話を盗聴する仕掛の設備をしたワシントンのアパートで幾回か会った。
この記録から得られた情報は文書化され、そのコピーはステフェンソンによって毎日ルーズベルト大統領に届けられた。これは当時、暫く前から傍受解読されていた東京とワシントン間の外交電報を補強するものであった。
1941年11月27日、大統領は彼の息子ジェームズ・ルーズベルトに特別のメッセージを持たせてステフェンソンのところへ送ったが、その意図はイギリス外務省もワシントンのイギリス大使館もまだ分かっていなかった。その同じ日に、ステフェンソンはそれをロンドンに送った。彼の電報は次のようなものだった。
『日本トノ交渉ハ打チ切ラレタ。軍ハ2週間以内ノ戦闘ヲ予期ス』
私は繰り返します。電報は『日本トノ交渉ハ打チ切ラレタ。軍ハ2週間以内ノ戦闘ヲ予期ス』
想像されるように、この電報はロンドンに巨大な激動を与えた。そこでワシントンにいたハリファックス卿(訳注・駐米イギリス大使)に直ちに電報してその確認を求めた。ハリファックスは電報が届いたときにはヴァージニアに狩猟に出ていたが、彼は余儀なく馬から下りて大使館に帰り、自分はこのようなことは何も知らないと返電した。他の至急報がロンドンから、今度はステフェンソン宛てに出されたが、それは首相と閣僚が彼の情報源を知りたいというものであった。ステフェンソンは簡単に返電した。
『(情報源は)アメリカ大統領』
2日後11月29日に、コーデル・ハルはハリファックス大使に会い、そのニュースを公式に伝えた。その際コーデル・ハルはこう言った。『日本との外交関係は事実上終わった。仕事は既に陸海軍の手に渡った。日本は今や突然に動き、それも完全な奇襲の要素を持つであろう』」
この素直なインタビューの一週間と少し後、驚きがどのように来たかは、歴史の問題です。

ヒルダー:12月7日の実際の攻撃のニュースに、ルーズベルト大統領と彼の閣僚たちはどのように対応しましたか。
ドール:ルーズベルト大統領の演説「汚辱の日」の驚愕と悲嘆の偽善的なイメージを破壊したのは、再び陸軍長官スチムソンでした。スチムソンは次のように本当のことを述べました。
「日本が我々を襲ったとの最初のニュースが届いたとき、私は何よりも先ず、ほっとした。この危機到来によって不決断のときは去り、アメリカ国民全体を結合できるとの安堵の気持ちであった。急速に大きくなってゆく損害のニュースにも関わらず、この感情はずっと支配的だった」
真珠湾の日に、上下両院の議員グループに対して、
「攻撃されたとき以外には我が国が戦争に突入することはない」
という彼の誓約を最も強く打ち出して、ルーズベルトは声を大にして主張した。「さて我々は攻撃された。そのことに付いては何の疑問もない」
チャーチルは彼の『大連合』(著書)の中で、こう語っています。その晩彼はウィナント大使、アベレル・ハリマン及び悪名高いCFRのメンバーたちと一緒にいました。ルーズベルトの言葉を引いて、ウィナントは最初に叫んだ。「それで良い。上手くいった」。チャーチルは言いました。
「私の二人のアメリカ人の友人はこのショックを称賛すべき不屈さで耐えた……実際、長い苦痛から解放されたとさえ思うだろう」
記録されたこの反応は、アベレル・ハリマンにとってほぼ計画通りであったのだろう。チャーチルはこの日の自分のことを、次のように告白しています。
「その晩(私は)救済され感謝に満ちた眠りを貪るべくベッドに入った。アメリカを我々の側に付けることは私の最大の喜びであったと宣言しても、いかなるアメリカ人も私を非難することはあるまい。それは私が夢見、目指し、望んできたところであり、それが今や現実化したのだ」
 
   
第二次大戦時のアメリカの反枢軸ポスター:アメリカの婦女子をカギ十字のナチスの魔手と,旭日旗の日本の魔手が襲う。か弱い家族を守るためにも「やつらの手を,引き離そう。新しい勝利公債を買おう」。兵士として戦うことだけでなく,資金協力も総力戦の重要な構成要素である。



アメリカの見えない政府

ドール:ルーズベルト大統領とその支持者の金融閥は、チャーチルとその支持者の銀行家たちと共に、最初からアメリカと日本、連合国とドイツの間の戦争を望んでいたのです。そして戦争を適当に計画し
推進しました。
ドイツは戦争を欲していなかったし日本も戦争を欲していなかった。そして何にも増してアメリカ国民は戦争を欲していなかったのです。だがルーズベルト大統領と世界金融勢力は戦争を欲しました。事実、ルーズベルトがパールハーバーを攻撃するように日本を挑発したのと同じ手口でイギリスとポーランドを誘導して、ダンチヒ回廊問題を打開するための1939年8月のヒトラーの道理に合った提案を拒否させたのも、世界金融資本によって支持されたルーズベルトその人であると、ある歴史家たちは解明しています。
著名な歴史家ハリー・エルマ・バーンズのこの問題の個所を引用しましょう。
「ルーズベルトの1937年10月5日のシカゴ演説<Chicago Bridge>から、1941年12月7日午前7時55分頃真珠湾上に日本爆撃機が出現するに至る真珠湾攻撃の責任は、事実を知っている人たちにとって、自ら進んで公表する勇気があるかどうかには関係なく、全く明らかである…大西洋でヒトラーを戦争行為に挑発できないことがはっきりして来た1941年6月の、日本の経済的扼殺で始まった戦術の切換えを除いては、戦争への道はまったく直線的であった。全局面を通じる戦争工作の建築家であり、大指揮者だったのは、フランクリン・デラノ・ルーズベルトだ」
彼は銃であり、他の者は快く弾薬を供給した。CFRのメンバーであるバナード・バルークとフェリックス・フランクファーターの弾薬庫から、それは大量に供給された。既に私が述べたように、これはアメリカの<見えない政府>であり、戦争を望んだのは彼らであり、アメリカ人ではないのです。

ヒルダー:戦争が起こったとき、一般のアメリカ人がどんなに感じたかを説明して頂けませんか。パールハーバーの奇襲を操縦したルーズベルトとチャーチル首相は英国国民に事情を説明しなかった、そうでしょう。
ドール:こちらが仕掛けた訳ではない、卑怯な攻撃だと教え込まれた戦争に対する憤慨と愛国的怒りが、当然ながら最初にアメリカ人の間に行き渡りました。このことが、誤った情報を与えられ、感情的になった我々の議会に対日宣戦をさせました。国民は8隻の戦艦の損失にギョッとしました。それらは沈みまたは大損害を受け、188機は破壊された。3303人の将兵の戦死者、1272人の負傷者に対する悲しみに心を取り乱しました。しかし間もなく、多数の人たちは、真珠湾の指揮官キンメル提督とショート将軍が、なぜそんなに完全に奇襲されたのか、と問い始めたのです。その適切な、しかし危険な質問に覆いを掛け、逸らせるために、ルーズベルト自身および彼の政府から適当な回答を引き出そうとする動きをはぐらかし、スケープゴートを作り出す必要に迫られました。
キンメル提督はその陽動作戦を私に説明してくれました。
「数日後、事情を調査するためにルーズベルト大統領によって任命された委員会と一緒にオーエン・ロバーツ判事がワシントンから真珠湾に来た。しかしそれは事実上、大いに必要であったスケープゴート、つまりショート将軍と私、を浮かび上がらせ、怒っているアメリカ国民の眼をワシントンから逸らし、あの非常な惨劇の計算された説明のために、真珠湾の指揮官という個人に責任を被せるためだった。攻撃の10日後、私は指揮官を解任され、30日して退役した」
当然、私は提督の発言にショックを受けた。しかしCFRのフェリクス・フランクファーターが、真珠湾についての個人的報告をルーズベルトのために作る人物としてオーエン・ロバーツを任命するのに重要な役割を果したと知って、私は驚かなくなった。ロバーツは「首切り人」の役割を引き受け、フェリックス・フランクファーターの承認を得た「使える」報告を責任を持って仕上げたのです。
マックス・フリードマンによれば、
「フランクファーターは、ロバーツ判事が、パールハーバーに導いた直接の事情と、攻撃が始まって後に起こった事柄だけについて大統領への私的な報告書を作ることに、非常に固執していたという。彼はスケープゴートに対する誘導尋問において、国民の注意がルーズベルトの弁護という、より重要な任務から外れることを心配していた…南北戦争でのリンカーンがそうであったように、ルーズベルトの権威がお節介な議会の委員会によって危険に曝されるのを恐れていた」
スケープゴートを擁護する調査がなされ、お節介な議会によって大統領の権威が危険に曝されるかも知れないというフランクファーターの恐れは理解することができます。ロバーツ判事は二人をスケープゴートに仕立てるのに時間を掛けなかった。かくてごまかしが勢いよく進行したのです。
ロバーツのいわゆる「審理」に関連して、ニュールンベルク裁判で11人のドイツ指導者が死刑を宣告されたとき、ロバート・タフト上院議員が1944年9月に次のように述べたことを、あなたはすぐさま思い出すことでしょう。
(タフト上院議員)「11人が絞首刑を宣告されたのは、侵略戦争を行ったとする罪状によってである。彼らは敗れたがゆえに有罪になった。その理屈でいえば、枢軸側が勝っていたならばルーズベルト大統領は死刑にされていた筈だ…。これらの11人の絞首刑は、我々が将来長く後悔するアメリカの歴史の汚点になるだろう」
多くの事情通のアメリカ人は、ロバーツ報告もまた汚点だったという意見に同意しています。けれどその時点では「ごまかし」のための露骨な計略だったのです。それはルーズベルト大統領、彼の政府、そして彼の共犯者たちを隠してしまった。ロバーツ報告は、真珠湾にいた、故意に通報されなかった指揮官に、恥知らずにも全責任を被せたのです。
キンメル提督は私にこう言いました。
「ロバーツ報告は一つの目的―ショート将軍と共に私を生贄の山羊にし、日本に与えた1941年11月16日のハル最後通告の衝撃を避け、パールハーバーで我々を攻撃するように彼らを誘惑する周到な計略の露見阻止―に奉仕する見え透いた不正確さに満ちた殺戮場だった」とね。
ヒルダー:公式の審問はありましたか? 彼らの内の一人でもキンメル提督あるいはショート将軍の疑いを最終的に晴らしましたか。
ドール:公式のパールハーバー審問は8回ありましたが、それらは皆戦争の続いている間、我が共和国でも、偏見、裁判、政略、そして特殊な誘導が真実を隠し、公正さを失わせる悲しい証明を見せつけただけでした。例えば上下両院合同委員会はその573頁もある報告書で、政府を免責し、キンメル提督とショート将軍個人をスケープゴートにしてしまっているのです。ただ少数意見書だけが12月6、7日に「迅速な即時の行政行動」と取らなかった廉で、全軍総司令官ルーズベルト大統領を敢えて批判しているだけでした。それは「彼らの責任を果さなかった」ことでスチムソン、ノックス、マーシャル、スタークをも批判している。セオボールド提督によれば、
「少数意見書でさえも、パールハーバーの惨劇にルーズベルト大統領がいかに関わったのか、それについての完全な理解からは遥かに遠いことにがっかりした」



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