パリ講和会議人種的差別撤廃提案
第一次世界大戦後の
パリ講和会議の国際連盟委員会において、
大日本帝国が主張した、
人種差別の撤廃を明記するべきという提案を指す。
イギリス帝国の自治領であった
オーストラリアやアメリカ合衆国上院が強硬に反対し、
ウッドロウ・ウィルソン
アメリカ合衆国大統領の裁定で否決された。
国際会議において
人種差別撤廃を明確に主張した国は
日本が世界で最初である。
■日本は欧米の白人至上主義と
不平等条約に長年悩まされてきた経験から、
「人種差別撤廃」という理想の実現と同時に、
アメリカでのアジア系移民に対する
差別問題を解決したいという考えもあった。
当時のアメリカでは
アジア系移民排斥運動が激しさを増しており、
中国系・日系移民に対する
移民制限や永住権剥奪・財産没収などの
不公平な法律がまかり通っていた。
この提案は国内のみならずアメリカの黒人層、
インド、東南アジアなど植民地の被支配層からも
高い注目を集めた。
■本提案は当時としては画期的だったが、
差別が常態化していた欧米諸国からすれば
かなり急進的な内容であった。
当時の白人社会での差別とは
あくまで白人・準白人内での民族差別のことであり、
黄色人種・黒人への差別はその埒外とされた。
1919年のアメリカでは
自国政府の講和会議での行動に対して、
多くの都市で人種暴動が勃発し、
100人以上が死亡、
数万人が負傷する人種闘争が起きた。
日本政府内において
人種差別撤廃に関するその背景の一つが
当時アメリカ合衆国、カナダ等で問題となった
日系移民排斥問題がある。
国際連盟で多数を占めるであろう
「『アングロ・サクソン』人種」の国が
人種的偏見により
「帝国の発展」を阻害する動きに出るという危惧もあった。
1918年(大正7年)11月13日の外交調査会において
内田康哉外相が講和会議に対する
外務省意見案を発表したが、
その中の国際連盟問題の項目において
「人種的偏見の除去」が
講和後設立される国際連盟参加の条件であると述べている。
この意見案は大筋で外交調査会に承認され、
日本全権の正式な方針となった。
提案内示と講和会議
1919年(大正8年)1月14日、
パリに到着した日本全権団は
人種差別撤廃提案成立のため、各国と交渉を開始した。
1月26日に珍田捨巳駐英大使は
アメリカのロバート・ランシング国務長官と面会し、
ランシングが提案に肯定的であるという印象を得た。
2月4日にはウィルソンの友人である
エドワード・ハウス名誉大佐に、
連盟規約に挿入するべき文章として、
「甲案」と「乙案」の二つの案を内示した。
ハウスはこのうち乙案に賛意を示し、
ウィルソンも賛成するであろうと述べた。
翌日ハウスとウィルソンが会談し、
日本側に人種差別撤廃提案を
連盟規約に挿入することを大統領提案として
提出するつもりであると伝達した。
「最大の障害」であると見られていた
アメリカとの調整が成功し、
日本側は提案成立に大きな自信を得た。
ところが、
三大国の一つである
イギリスとの交渉は難航した。
イギリス帝国内の自治領である
オーストラリア、カナダがこの提案に強く反対しており、
日本が直接交渉を行っても妥協は成立しなかった。
オーストラリアは
白豪主義体制を国是としていただけでなく、
労働問題が目下の課題となっていた。
さらに
選挙が目前に迫っていたこともあり、
この提案は受け入れがたいものであった。
イギリス全権のロバート・セシル元封鎖相、
アーサー・バルフォア外相は
個人的には日本の立場に賛成するとしたものの、
問題が重大であり、
人種差別撤廃という問題を
連盟規約で扱うのは妥当ではないと回答した。
バルフォアは説得に訪れたハウスに対して、
「ある特定の国において、人々の平等というのはありえるが、中央アフリカの人間が
ヨーロッパの人間と平等だとは思わない」と述べている。
講和会議において
日本代表は積極的な発言を行わず、
「サイレント・パートナー」と揶揄された。
ウィルソン大統領の悲願であった国際連盟設立に関しても、
内田康哉外相が「本件具体的案ノ議定ハ成ルヘク之ヲ延期セシメルニ努メ」ると言ったように消極的態度に終始し、
各国の失望を買った。
日本側は「正否はともかく、
この際本問題に関する我主張を鮮明することは
将来のため極めて緊要」という判断から、
提案を行うことになった。
最初の提案
2月13日
国際連盟委員会において、
牧野は人種・宗教の怨恨が戦争の原因となっており、
恒久平和の実現のためには
この提案が必要であると訴えた。
また、この提案によって
即座に各国における
人種差別政策撤廃が行われるわけではなく、
その運用は国家の為政者の手にまかされると述べた。
ベルギー代表は
日本案の条文に反対し、
ブラジル・ルーマニア・チェコスロバキアの代表が
日本の主張に理解を示す発言を行い、
中華民国代表は
本国の訓令を待つとして意見を保留した。
その後
「宗教に関する規定」そのものを
削除するべきと言う意見が多数となり、
結果二十一条自体が削除された。
牧野は
人種差別撤廃提案自体は
後日の会議で提案すると述べ、
次の機会を待つこととなった。
この提案は
日本を含んだ海外でも報道され、
様々な反響を呼ぶことになる。
牧野は西洋列強の圧力に苦しんでいた
リベリア人やアイルランド人などから
人種的差別撤廃提案に感謝の言葉を受けた。
また米国内からも、
全米黒人地位向上協会(NAACP)が
感謝のコメントを発表した。
2月14日
アメリカに一時帰国したウィルソンは、
「人種差別撤廃提案」が
国内法の改正に言及しており、
内政干渉に当たるという
国内の強い批判に直面することとなった。
アメリカ合衆国上院では
「人種差別撤廃提案」が採択された際には、
アメリカは国際連盟に
参加しないという決議が行われており、
ウィルソンもこの反対を抑えることはできなかった。
3月14日、
牧野は
オーストラリアのビリー・ヒューズ首相と会談したが、
ヒューズ首相は
国内事情から賛成できないと述べ、
その後のイギリス帝国各国代表を交えた会議でも
強硬に反対した。
イギリス・ニュージーランド・カナダは
牧野の説得で賛成に傾きつつあったが、
ヒューズの強硬な態度は
これらの国も反対に回帰させていった。
日本政府も
提案の成立が困難であると見るようになり、
最悪の場合は議事録に記録することで
日本の立場を明らかにするように訓令を行った。
外交調査会の
伊東や犬養毅は
提案が実現しなければ
最悪国際連盟不参加を決めるべきと強硬であった。
4月11日夜の国際連盟委員会最終会合において、
牧野は連盟規約前文に
「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」との
文言を盛り込むという修正案を提案した。
イギリスのセシル元封鎖相は
「このような文句の挿入は全く無意味であり、
意味があるとするなら、
重大な反対をしなければならない。
(中略)この問題は
国際連盟成立後の活動に待つべきである。
日本は現時点において
五大国のひとつである事実をみれば、
待遇の優劣は
国際連盟においては問題にならない。」と反対した。
日本は
「修正案はあくまで理念をうたうものであって、
その国の内政における
法律的規制を求めるものではないにも関わらず、
これを拒否しようというのは、
イギリスが他の国を
平等と見ていない証拠である」とし、
修正案の採決を求めた。
その後
イタリア、フランス、ギリシャ、中華民国、ポーランド等の
各代表が賛否を述べ、討議が行われた。
議長であったウィルソンは
「この問題は平静に取り扱うべきであり、
総会で論議することは避けられない」と述べ、
提案そのものを取り下げるよう勧告したが、
牧野は採決を要求した。
議長ウィルソンを除く
出席者16名が投票を行い、
フランス代表・イタリア代表各2名、
ギリシャ・中華民国・ポルトガル・チェコスロバキア
(後のユーゴスラビア王国)の各一名、
計11名の委員が賛成
イギリス・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニアの
計5名の委員が反対した。
しかしウィルソンは
「全会一致でないため
提案は不成立である」と宣言した。
牧野は
「会議の問題においては
多数決で決定されたことがあった」と反発したが、
ウィルソンは
「本件のような重大な問題については
これまでも全会一致、
少なくとも反対者ゼロの状態で採決されてきた」と回答し、
牧野もこれに同意した。
牧野は
「日本はその主張の正常なるを信ずるが故に、
機会あるが毎に本問題を提議せざるを得ない。
また今晩の自分の陳述および賛否の数は
議事録に記載してもらいたい」と述べ、
ウィルソンも応諾した。
またフランス代表フェルディナンド・ラルノードも
この採決方式を批判している。
4月28日
連盟国総会議において
牧野は人種問題の「留保」について演説を行い、
人種問題に関する日本政府の立場を説明した。
成立は困難であると見られたため、
総会での提案は行われなかった。
これにより、
日本は人種差別撤廃に関する提案を
一時断念することとなった。
提案の否決によって
新聞世論や政治団体は憤激し、
国際連盟加入を見合わせるべきという強硬論も強まった。
外交調査会でも
伊東、犬養、内田外相、田中義一が
牧野を軟弱と批判したが、
提案達成が元から困難と見ており、
提案達成より
米英との協調を図るべきと考えた
原敬首相は牧野を擁護した。
1924年
アメリカでいわゆる排日移民法が成立し、
日系移民が全面禁止されると、
日本国民の対米感情の悪化は決定的なものとなった。
これに加えて、
1929年に世界恐慌が始まると、
植民地が少ない日本は、
第一次世界大戦後に植民地を喪失し、
フランス政府による
報復的なヴェルサイユ体制に
反感を持つドイツへの親近感を強め、
植民地大国である
イギリスやフランスへの反感を強めた。
これら一連の流れは、
その後の太平洋戦争
(大東亜戦争)への呼び水となり、
昭和天皇も独白録のなかで
大東亜戦争の遠因となったことを明らかにしている。
日本とアメリカは
ドイツが持っていた
山東半島の権益継承を巡って対立していたが、
4月28日
ウィルソンが日本の主張を支持し、
日本に利権が継承された。
これを
本提案を取り下げる譲歩への見返りであったとする
批判がなされ、
日本が提案を行ったのも
取引材料であると批判された。
これに対し
日本全権団は、
「人種平等条項の運命が決まったのは
4月11日の会議のことであり、
山東問題が
米・英・仏・伊の四巨頭会議で考慮されたのは
それよりもずっとあとのことだった。
委員会が
平等原則を支持しないことになったにもかかわらず、
日本側は
山東半島に関して最終決定がなされる2日前に
国際連盟支持を公表していた。