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[転載]習近平「30万人が虐殺された」南京大虐殺「国家哀悼日」・南京事件否定も「次世代の党」が最適

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習近平「30万人が虐殺された」南京大虐殺「国家哀悼日」・南京事件否定も「次世代の党」が最適「南京事件」追悼式典 習主席、歴史認識で日本をけん制
習近平「30万人の同胞が痛ましく虐殺された」 (12月13日の南京大虐殺「国家哀悼日」「南京大虐殺記念館」で)

http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2371773.html
「南京事件」記念式典、習近平国家主席が初の出席
最終更新:2014年12月13日(土) 18時11分、TBSニュース
習近平「30万人が虐殺された」南京大虐殺「国家哀悼日」・南京事件否定も「次世代の党」が最適「南京事件」記念式典、習近平国家主席が初の出席

 旧日本軍による「南京事件」から77年を迎えた13日、中国・南京で行われた記念式典に、習近平国家主席が最高指導者として初めて出席して演説し、歴史問題で日本を強くけん制しました。

 「哀悼の意を表すため、車が一斉にクラクションを鳴らしています。これが式典開始の合図となります」(記者)

 「歴史は時代の変遷で変えることはできず、事実は巧みな言葉や言い逃れで消し去ることはできない」(中国 習近平国家主席)

 中国・江蘇省の南京で、「南京事件」から77年にあたる13日、記念式典が開かれ、およそ1万人が参加しました。

 「南京事件」とは、旧日本軍が南京を占領した際、多くの中国人に対して殺害や残虐行為があったとされる事件です。今年から国家級の記念日に格上げされ、習近平国家主席が演説。中国側が主張する「犠牲者30万人」という数字を改めて強調しました。

 「いかなる人が南京大虐殺の事実を否定しようとしても、歴史が許さない。30万人の殉難者の亡霊が許さない」(中国 習近平国家主席)


 記念館周辺には、「国辱を忘れるな(=勿忘国辱)」と記された掲示板が幾つも掲げられ、大型書店には、「南京事件」の特設コーナ―が設けられました。さらに・・・

 「南京市内の小学生全員に今月1日、南京事件について書かれた、新しい教材が配られました」(記者)

 「2人の日本兵は銃剣を持ち、李秀英に向かった。彼らは残虐に彼女の足を刺した。しかし、抵抗して倒れなかったので顔を刺した」(小学生)

 国営の中国中央テレビは、小学生が授業で「日本兵による残虐行為」の描写を音読する様子を繰り返し伝えました。

 「私たちは日本の美しい桜を知っていて、日本のアニメに興味を持っています。でも、この授業を受けた後、日本人の暴行に憤りを感じました」(中学生)

 中国政府は、南京事件を扱った動画を1週間連続でネット配信するなど、「大虐殺を否定する日本の右翼に反撃する」と日本に譲歩しない姿勢を強めています。その一方で、習主席は演説で、日中友好を強調しました。

 「中日両国の人民は、代々にわたって友好を深め、歴史を鏡に未来に向かうべきだ」(中国 習近平国家主席)

 歴史問題で日本をけん制しながらも、先月の日中首脳会談を踏まえ、関係改善の意思も示した形です。(13日14:45)


>「南京事件」とは、旧日本軍が南京を占領した際、多くの中国人に対して殺害や残虐行為があったとされる事件です。今年から国家級の記念日に格上げされ、習近平国家主席が演説。中国側が主張する「犠牲者30万人」という数字を改めて強調しました。


支那は、今年から、日本軍が南京を攻略した12月13日を「国家哀悼日」に制定し、大々的なイベントとし、初めて国家主席の習近平が参加者1万人を前に演説をし、改めて「日本軍による無辜の南京市民30万人大虐殺」を強調した。
習近平「30万人が虐殺された」南京大虐殺「国家哀悼日」・南京事件否定も「次世代の党」が最適

習近平「30万人が虐殺された」南京大虐殺「国家哀悼日」・南京事件否定も「次世代の党」が最適





>「いかなる人が南京大虐殺の事実を否定しようとしても、歴史が許さない。30万人の殉難者の亡霊が許さない」(中国 習近平国家主席)


1937年当時の南京の人口は約100万人だったが、1937年10月に日本軍が上海を占領すると支那軍が上海から南京に退却したために激減した。

南京市民の大半は、支那軍が入って来た南京から日本軍が占領した上海などへ逃げ出したのだ。

したがって、日本軍が南京攻略戦を始めた1937年12月12日夜までに、南京の人口は20万人以下まで減っていた。


約100万人の南京市民のうち、約80万人の南京市民が日本軍が占領した上海やその他などへ逃げ出して、人口が20万人以下となっていた南京において、どうすれば習近平が国家式典の演説で述べたように30万人を殺害できるのか?!

事実は、1937年12月13日に20万人以下となっていた南京の人口は、日本軍占領後に増え、1か月後には約25万人に増加した。






>「南京市内の小学生全員に今月1日、南京事件について書かれた、新しい教材が配られました」(記者)
>「2人の日本兵は銃剣を持ち、李秀英に向かった。彼らは残虐に彼女の足を刺した。しかし、抵抗して倒れなかったので顔を刺した」(小学生)



その証言が南京市内の小学校の教材に載っている李秀英という糞婆は、12年前の平成14年にTBS「筑紫哲也NEWS23」に出演したことがある。
http://www.history.gr.jp/~nanking/tvtbs020926.html
平成14(2002)年9月26日放送(TBS「筑紫哲也NEWS23」より)
巨龍解剖~南京編~
平成14(2002)年9月26日放送(TBS「筑紫哲也NEWS23」より)巨龍解剖〜南京編〜
(一部抜粋)
平成14(2002)年9月26日放送(TBS「筑紫哲也NEWS23」より)
筑紫哲也(司会者)  
 えー、日中友好、国交回復30周年に、ちなんだシリーズ「巨龍解剖」2回目の今夜は、南京編です。
 日中の友好に、常に影を投げかけて来たのが、「不幸な歴史」、「過去をめぐる歴史認識」の問題です。
 日本はかつて、日本軍は中国で何をしたのか、そして中国では、今その事が、どういう形で伝えられているのか。
 侵略の象徴の場と言える南京で、次を担う若い世代に聞きました・・・。

平成14(2002)年9月26日放送(TBS「筑紫哲也NEWS23」より)
女性音声ナレーション
 1937年、日本軍が当時の中国・・・国民政府の首都・南京に侵攻した際、民間人を含む中国人を大量虐殺したとされる・・・いわゆる南京事件。
 現地の記念館には、今もその生々しい傷跡が残っています。
 そして、あれから65年後の今・・・。


南京事件被害者、李秀英さん  私は、日本兵に体中を何度も刺されたのですよ―――。平成14(2002)年9月26日放送(TBS「筑紫哲也NEWS23」より)
南京事件被害者、李秀英さん
私は、日本兵に体中を何度も刺されたのですよ―――。

筑紫哲也(司会者)  やっぱり、日本人・・・日本兵というのは大変、憎いと今でも思いませんか。
筑紫哲也(司会者)  
やっぱり、日本人・・・日本兵というのは大変、憎いと今でも思いませんか。


"南京事件"被害者、李秀英さん  
最初は、日本人が憎くてしょうが無かったが、日本人と接してからは、良い人たちだと―、同じ人間ですから。


女性音声ナレーション  
南京事件当時、18歳だったという彼女は、フィルムに撮影されており、残された文書記録と共に、証言も一致しているという被害者です。


>女性音声ナレーション  
>南京事件当時、18歳だったという彼女は、フィルムに撮影されており、残された文書記録と共に、証言も一致しているという被害者です。



呆れた!

平成14(2002)年9月26日放送TBS「筑紫哲也NEWS23」は、ナレーションを使って「李秀英の証言が一致」などと述べているが、完全な虚偽報道だ!

李秀英の証言は、南京軍事法廷、インタビュー、映画撮影、日本の裁判所など、証言するごとに内容がクルクルと変わった。

李秀英は、襲われた場所についても証言によって異なる2か所述べており、襲ってきた残虐な日本兵の人数についても証言によって異なり2人だったり3人だったりし、それだけでも信用できない証人だが、更に相手の短刀を奪って格闘して37箇所も刺されたのに死なずに生きていたのも不思議な(有りえない)話だ。
南京大屠杀幸存者李秀英老人。

南京の小学校の教材に記述されている李秀英が遭ったような残虐行為が本当に発生していたなら大問題になっていたはずだが、当時そんなことは全く話題になっていなかった。

支那国民党は南京戦を挟む1937年12月1日から1938年10月24日までの約1年間に300回も外国人記者などに記者会見をして日本の悪事を宣伝したが、1回も南京で虐殺があったと言わなかった。

また、当時、南京には、日本人の記者やカメラマンなども多数入って取材をしていたが、誰一人としてそのような事件については見たことも聞いたこともなかった。

東京朝日新聞・橋本登美三郎上海支局長の証言

「南京での事件ねえ。
私は全然聞いてない。
もしあれば、記者の間で話に出てるはずだ

記者は少しでも話題になりそうな事は話をするし、それが仕事だからね。
噂としても聞いた事もない。
朝日新聞は現地で座談会もやっているが、あったのなら、露骨ではないにしても抵抗があったとかそんな話が出るはずだが。
南京事件はなかったんだろう。」

 
同盟通信・前田雄二記者の証言

「虐殺とは戦争に関係ない住民や婦女子をむげに殺害することだろう。
ところが殺されなければならない住民婦女子は(難民区)内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。
私の所属していた同盟通信の旧支局はその中にあった。
入城四日目には私たちは全員この支局に居を移し、ここに寝泊まりして取材活動をしていた。
つまり難民区内が私たちの生活圏内で、すでに商店が店を開き、露天商や大道芸人まで出て、日常生活が回復していた。
この地区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。
こういう中で、万はおろか、千、百、あるいは十をもって数えるほどの虐殺など行われようはずがない。
もしあれば、私たちが見逃すはずがない

 
東京日々新聞カメラマン 金沢善雄氏の証言

「戦後、この時、何万人かの虐殺があったといわれていますが、不思議でしようがないのです。私は南京をやたら歩いていますが、虐殺を見たこともなければ聞いたこともありません」
ここ(南京)には1ヶ月ほどいましたが、戦後言われているような事は何も見ていなければ、聞いてもいません。ですから虐殺があったと言われていますが、あり得ないことです。松井大将が絞首刑になったのも不思議でしょうがないのです」

 
報知新聞従軍記者 田口利介氏の証言

―― 南京で虐殺があったといわれますが?

「当時聞いたこともなかったし、話題になったこともありません」

 
読売新聞技師 樋口哲雄氏の証言

「自転車を持っていたので、毎日あっちこっちに行きました」

―― その頃、日本軍による虐殺があったと言われていますが?

「どこで何があったのか知りません」

―― 見たり聞いたりしませんか?

全然解りません。だいいちそういう形跡を見たことがありません。あったとよく言われますが、どこでどんなものがあったのか。中山陵など荒らされていないし、きれいでした。
やらなきゃこっちがやられるからやったのを虐殺といっているのだと思います」

 
大阪毎日新聞 五島広作記者の証言

―― 第六師団は北支で感謝状をもらってないから、中支で残虐行為をやったと言う人もいますが……。

はじめて聞いた話です。第六師団でそんなことはありませんでした
先ほどの話同様、谷中将が処刑されてからの作り話でしょう。
戦後、中国の言い分に合わせた話がよく作られています

―― 南京陥落後の第六師団の行動はどうでした?

十三日、十四日は城内掃蕩で、残虐行為などありません

(中略)

―― 五島さんはいつまで南京にいましたか。

「翌年の一月十日頃までいました。
この間、南京のあちこちに行きましたが、虐殺といわれることは見ていません。
また、強姦もあったといわれますが、すでに慰安所ができてましたから、戦後いわれていることは嘘です。(後略)」

 
東京日日新聞 佐藤振寿カメラマンの証言

―― 虐殺があったといわれてますが……。

「見てません。虐殺があったといわれてますが、十六、七日頃になると、小さい通りだけでなく、大通りにも店が出てました。
また、多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集まってましたから、とても残虐行為があったとは信じられません。

―― 南京事件を聞いたのはいつですか

「戦後です。アメリカ軍が来てからですから、昭和二十一年か二十二年頃だったと思いますが、NHKに『真相箱』という番組があって、ここで南京虐殺があったと聞いたのがはじめてだったと思います。
たまたま聞いてましてね。
テーマ音楽にチャイコフスキーの交響曲が流れた後、機関銃の音キャーと叫ぶ市民の声があって、ナレーターが、南京で虐殺がありました、というのですよ。
これを聞いてびっくりしましてね。嘘つけ、とまわりの人にいった記憶があります
 十年ほど前にも朝日新聞が『中国の旅』という連載で、南京では虐殺があったといって中国人の話を掲載しましたが、その頃、日本には南京を見た人が何人もいる訳です。
何故日本人に聞かないで、あの様な都合よく嘘を載せるのかと思いました。
当時南京にいた人は誰もあの話を信じてないでしょう。
(略)」




1937年12月15日
19371215「中国人は日本人カメラマンが行くと、積極的に子供をかかえて撮影に協力してくれる。日本兵や日本人を恐れていなかった」(カメラマン佐藤振寿氏。南京占領の2日後 1937.12.15撮影 南京安全区にて)
東京日日新聞 佐藤振寿カメラマン「中国人は日本人カメラマンが行くと、積極的に子供をかかえて撮影に協力してくれる。日本兵や日本人を恐れていなかった」
(南京占領の2日後 1937.12.15佐藤振寿カメラマン撮影 南京安全区にて)



1937年12月17日
1937年12月17日 日本軍入城
1937年12月17日 日本軍入城

19371217支那兵たちの悪行に辟易していた南京市民たちは、日本軍の入城を歓声をもって迎えた。日本軍の入城式の日(1937年12月17日)に、食糧やタバコの配給を受け、歓声をもって迎える南京市民。市民がつけている日
支那兵たちの悪行に辟易していた南京市民たちは、日本軍の入城を歓声をもって迎えた。
日本軍の入城式の日(1937年12月17日)に、食糧やタバコの配給を受け、歓声をもって迎える南京市民。市民がつけている日の丸の腕章は、民間人に化けた支那兵ではないことを証明するために、日本軍が南京市民に配った(毎日版支那事変画報 1938.1.11発行)


19371217【平和甦る南京《皇軍を迎えて歓喜沸く》】朝日新聞1937年12月20日掲載「17日河村特派員撮影」
【平和甦る南京《皇軍を迎えて歓喜沸く》】朝日新聞1937年12月20日掲載「17日河村特派員撮影」
(右)武器も持たず中国人から買い物をする日本兵。
(中上)南京に戻ってきて畑を耕す中国人農民。
(中下)平和になって南京に戻ってきた中国人ら。
(左)中華街の名物、街頭床屋。子どもも大人も手製の日の丸の腕章をして笑っている。


1937年12月19日
この温情 朝日新聞、上野記者撮影 南京にて松島部隊の兵隊さんに可愛がられている支那人の子供 昭和12(1937)年12月19日撮影
この温情
朝日新聞、上野記者撮影
南京にて松島部隊の兵隊さんに可愛がられている支那人の子供
昭和12(1937)年12月19日撮影



1937年12月20日
19371220解 説 文:南京陥落後旬日(じゅんじつ)にして、早くも平和の曙光に恵まれた市中では、皇軍将士と共に玩具をもてあそんでたわむれる支那の子供達…(12月20日、 南京住宅街にて朝日新聞林カメラマン撮影)
解 説 文:南京陥落後旬日(じゅんじつ)にして、早くも平和の曙光に恵まれた市中では、皇軍将士と共に玩具をもてあそんでたわむれる支那の子供達…
(12月20日、 南京住宅街にて朝日新聞林カメラマン 撮影)(玩具の戦車で子供達と遊ぶ兵隊さん(南京中山路にて))。
掲載:朝日新聞昭和12年12月25日&「支那事変写真全集(中)」


19371220解 説 文:惨虐無道な支那兵に脅かされ、空と地に唸る砲弾に怯えていた避難民地区の支那良民は、日本軍入城と共にホッと蘇生の思い。(昭和12年12月20日、南京住宅街にて朝日新聞林カメラマン撮影)。掲載:
解 説 文:惨虐無道な支那兵に脅かされ、空と地に唸る砲弾に怯えていた避難民地区の支那良民は、日本軍入城と共にホッと蘇生の思い。
(昭和12年12月20日、南京住宅街にて朝日新聞林カメラマン撮影)。
掲載:朝日新聞昭和12年12月30日& 「支那事変画報 第十一集(週刊朝日・アサヒグラフ臨時増刊)」


19371220解 説 文:暴虐無頼な抗日支那軍ながら傷けば、皇軍が敵をも隔てぬ同仁の慈悲に抱かれ、ここ南京外交部跡の野戦病院に我が衛生隊の手厚い看護を受けつつ、明け暮れ悔恨と感謝の涙に咽(むせ)んでいる支那傷
解 説 文:暴虐無頼な抗日支那軍ながら傷けば、皇軍が敵をも隔てぬ同仁の慈悲に抱かれ、ここ南京外交部跡の野戦病院に我が衛生隊の手厚い看護を受けつつ、明け暮れ悔恨と感謝の涙に咽(むせ)んでいる支那傷病兵。
( 昭和12年12月20日林特派員撮影)。
掲載: 「支那事変画報 第十一集(週刊朝日・アサヒグラフ臨時増刊)」


19371220疫病防止のため南京市民に予防措置を施す日本の衛生兵(南京占領の7日後 1937.12.20林特派員撮影 朝日グラフ 1938.1.19刊)
疫病防止のため南京市民に予防措置を施す日本の衛生兵
(南京占領の7日後 1937.12.20林特派員撮影 朝日グラフ 1938.1.19刊)


1937年12月20か23日、南京避難民の治療の様子。「支那事変画報」大阪毎日・東京日日特派員撮影、第15集より 撮影者、毎日新聞新聞カメラマン 南京避難民の病者治療にあたるわが衛生隊
1937年12月20か23日、南京避難民の治療の様子。
「支那事変画報」大阪毎日・東京日日特派員撮影、第15集より 撮影者、毎日新聞新聞カメラマン
南京避難民の病者治療にあたるわが衛生隊



1937年12月22日
19371222平和立帰る南京:日本兵が難民区内の避難民にお菓子を分配している様子(昭和12(1937)年12月22日 、難民区内にて朝日新聞カメラマン林特派員撮影)
平和立帰る南京日本兵が難民区内の避難民にお菓子を分配している様子
(昭和12(1937)年12月22日 、難民区内にて朝日新聞カメラマン林特派員撮影)



1937年12月24日以前
19371224以前。南京市民に食糧等を配る日本兵たち。(イギリス系新聞「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」1937.12.24付 南京占領の11日後)
南京市民に食糧等を配る日本兵たち。
(イギリス系新聞「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」1937.12.24付 南京占領の11日後)



1937年12月27日
19371227敵前上陸以来激戦また猛闘、快速また追撃、夜に日をついでの戦と進撃に、華やかな南京入りをした快速部隊の兵隊さん達、ひなたぼっこをしながら速製の支那語に、手まね、足まねを加えて支那良民や子供と話を
解 説 文:敵前上陸以来激戦また猛闘、快速また追撃、夜に日をついでの戦と進撃に、華やかな南京入りをした快速部隊の兵隊さん達、ひなたぼっこをしながら速製の支那語に、手まね、足まねを加えて支那良民や子供と話をする朗(ほが)らかな南京難民区の情景
(昭和12(1937)年12月27日、南京難民区にて朝日新聞影山カメラマン撮影)。
掲載: 「支那事変画報 第十一集(週刊朝日・アサヒグラフ臨時増刊)」


南京の街路で日本兵相手に商売をする中国人(毎日版支那事変画報1938.2.1刊)
南京の街路で日本兵相手に商売をする中国人
(毎日版支那事変画報1938.2.1刊)


19390520南京の捕虜収容所で、手製の楽器を演奏して楽しむ中国兵捕虜たち(毎日版支那事変画報1939.5.20刊)
南京の捕虜収容所で、手製の楽器を演奏して楽しむ中国兵捕虜たち
(毎日版支那事変画報1939.5.20刊)









さて、南京の人口については、平成24年2月に河村たかし名古屋市長が「いわゆる南京事件はなかったのではないか」と発言したことが問題とされた時に、山田宏「日本創新党」党首(当時、現在は「次世代の党」幹事長)が講演で話したことがある。(詳細記事
「日本創新党」党首で大阪市特別顧問の山田宏前東京都杉並区長
「日本創新党」党首で大阪市特別顧問の山田宏前東京都杉並区長(平成24年2月当時)
河村市長の「南京大虐殺」否定発言を擁護
2012年2月26日19時38分、日刊スポーツ

 政治団体「日本創新党」党首で大阪市特別顧問の山田宏前東京都杉並区長は26日、大阪市内で講演し、河村たかし名古屋市長の「南京大虐殺」否定発言に関し「間違いない。わたしも日本の汚名をそそぎたい」と述べ、河村氏を擁護した。

 山田氏は、当時の南京安全区国際委員会が作成したという文書に基づき「日本の南京占領後に、人口が20万人から翌月には25万人に増えている。虐殺があったのに増えるのか」と指摘。河村市長が中国側に南京市での討論会開催を打診していることに関し「南京でやったら駄目だ。第三国のインドがいい」と述べた。(共同)


そのとおり!

そもそも、日本軍による占領後に南京の人口が増えたのだから、虐殺なんてあった筈がない。

確かに1937年当時、南京には100万人超が住んでいたが、8月から上海で戦争が始まり、10月になって大量の支那軍が南京に逃げ込むと、南京市民の多数は日本軍が占領した上海などに避難して出て行った。

そして、南京で戦闘が始まった1937年12月12日の夜には南京の人口は20万人で、しかも、善良な市民は全員が安全区に避難していた。


まずは、南京の人口推移から。


▽1937年11月~12月の南京の人口推移▽

1937年前半「100万人超」
(支那事変勃発前)

1937/11/23日「50万」
「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は
約50余万である。将来は、およそ20万と予想される難民のための食料送付が必要である」
南京市政府書簡(南京事件P220 笠原十九司)

11/27「30~40万」
在留外国人に対して「避難勧告」が出された。
「市民の脱出は続いているが、市長の話では
30万から40万の市民がまだ南京に残っているとのこと」
米大使館報告 (アメリカ資料編P90)

12月1日、南京市長が全市民に安全地区に移るように命令

12/6「約20万」
なぜ。金持ちを、約80万という恵まれた市民を逃がしたんだ?
(ラーベの日記P96)

12月8日、支那軍司令長官唐生智が非戦闘員は全て安全地区に移るように命令

12月10日「約20万」
なにしろ、この街の運命と20万人の命がかかっているのだ。安全区の道路は、避難する人たちでごったがえしている。(略)残念ながら軍人がまだ大勢、安全区に留まっている。
(ラーベの日記P107)

12月13日「約20万」
言いかえれば、13日に貴軍が入城したときに我々は安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていましたが、同区内には流れ弾による極めてわずかの破壊しかなく、中国兵が全面的退却を行った際にもなんら略奪は見られませんでした。(略)もし市内の日本兵の間でただちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者が出ることは避けられないでしょう。
(安全委員会公文書T-6)


▽陥落直前の南京の人口に関する資料▽
――――――――――
安全委員会公文書【20万人の市民】
スティール【10万人の市民】
アベンド【10万人以上】
ダーディン【10万を越す非戦闘員たち+民間人は5万以上】
ラーベ【20万人】
リリー・アベック【15万人】
米ライフ紙【15万人の南京市民】
張群思少佐【非戦闘員10万】
劉啓雄少将【20万】
松井大将【12万余】
――――――――――


以上の資料を総合してみると、12月13日、南京陥落時点の南京の人口は、【10万人から最高20万人】の間とみて間違いなく、陥落後の生存人口が約25万人(安全委員会公文書)だから人口は増えた。

■日本軍が南京を占領してからは、減るどころか逆に増えている。

そして、南京で戦闘が始まる前に、多くの市民が南京を脱出したが、そのうちの多くは日本軍が開放した上海に行っていた。

もう一度、南京の人口推移を長い期間で見てみる。


▽1937年前半(支那事変以前)~1938年9月の南京の人口推移▽
1937年前半  「100万人」
 ↓
11月初旬~11月23日 「50万人」(支那軍が南京に来て減少)
 ↓
11月27日  「30~40万」
 ↓
12月13日  「20万」
 ↓
1938年1月14日 「25万人」(日本軍が南京を占領し支那軍が南京を去ったため南京の人口が増加に転じる)
 ↓
1938年9月23日 「40~50万人」


▽1938年9月23日「40~50万人」の資料▽
『文藝春秋』P193 第十六巻 第十九號 昭和十三年十一月特別號 (1938年)
 従軍通信/上海より廬州まで/瀧井孝作
 九月二十三日。晴。南京にて。
 午前九時、特務機関に行く。大西大佐より南京施政状況の説明あり。人口は戦前は百萬そのうち二十五萬漢口に行き、二十五萬は上海に在り、五萬は香港に行き、現在は四五十萬どまりなり。


しばらく南京に戻って来なかった人々のうち、漢口に行っていた25万人は支那の政府関係者が多く、上海に行っていた25万人は一般市民だから、やはり市民は日本軍の居る上海に行っていたのだ。


以上、南京戦前に多くの南京市民が日本軍の居る上海などに脱出し、日本軍の南京占領1ヶ月後には南京の人口が増加に転じていたことを述べた。

そもそも日本軍占領後に南京の人口が増えたのだから、虐殺があった筈がないと分かる。

(参考)
人口問題
http://www5b.biglobe.ne.jp/~nankin/page012.html




なお、平成24年2月に河村たかし名古屋市長が「いわゆる南京事件はなかったのではないか」と発言したことが問題とされた際の平成24年3月6日、東京では【河村発言」支持・「南京虐殺」の虚構を撃つ緊急国民集会】が開催されたが、この時に出席した国会議員は稲田朋美議員一人だけだった。

今回の衆院選の候補者としては、「次世代の党」山田宏候補と吉田康一郎候補(当時は東京都議)が出席していた。

つくる会「河村発言」支持「南京虐殺」の虚構を撃つ緊急国民集会
山田宏「河村市長には『絶対に撤回も謝罪もするな!支那人が来ないことは良いことだ!』と言っている。」

2012.3.6つくる会「河村発言」支持「南京虐殺」の虚構を撃つ緊急国民集会
吉田康一郎都議(当時、現在は「次世代の党」から東京7区に立候補)
●詳細記事
河村発言支持集会に満席&立ち見・つくる会「南京虐殺」の虚構を撃つ緊急国民集会】
稲田議員「首相が無かったと言えば終わる」
吉田都議「大村愛知県知事の河村市長への撤回要求(圧力)が凄まじい」
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-4573.html



こうしてみると、慰安婦強制の虚構について国会で盛んに追及してきた「次世代の党」は、南京問題についても最も期待できる!
次世代の党


最高裁判所裁判官の国民審査(平成26年12月)
【結論】
×  鬼丸かおる
×  木内道祥
×  山本庸幸
   池上政幸
×  山崎敏充

山崎敏充も×在特会へ賠償命令1226万円・最高裁判所裁判官国民審査・×鬼丸×木内×山本×山崎
山崎敏充も×在特会へ賠償命令1226万円・最高裁判所裁判官国民審査・×鬼丸×木内×山本×山崎
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山崎敏充も×在特会へ賠償命令1226万円・最高裁判所裁判官国民審査・×鬼丸×木内×山本×山崎
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「ふざけるな!習近平!」
 
 
 
 
 
 
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転載元: 正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現


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